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千葉地方裁判所 平成4年(ワ)1431号 判決

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

一  被告は、原告池田知都子に対し、金六五二〇万七九一五円及びこれに対する平成四年九月一七日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告池田忠勝、同池田慎及び同池田純子各自に対し、各金二一七三万五九七一円及びこれに対する平成四年九月一七日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、亡池田忠義の相続人である原告らが、同人の勤務先であった被告会社に対し、雇用契約上の安全配慮義務違反(債務不履行)を理由として、亡池田忠義の死亡による損害賠償を求めた事案である。

一  原告らの主張

1 原告池田知都子は、亡池田忠義(昭和一四年一一月生)(以下「亡忠義」という。)の妻であり、その余の原告ら三名は、いずれも亡忠義の子である。

2 被告会社は、書籍の出版、販売等を目的とする株式会社であり、亡忠義は、昭和三三年二月に被告会社に入社し、以来同社に勤務していた。

3 亡忠義の業務と死亡

亡忠義は、昭和五六年一〇月九日、被告会社の事業局庶務課長代理から教育事業局内に新設された推進部の中国課長に任命されたが、次のような経緯を経て、翌昭和五七年三月一二日午後一時三〇分頃、東京都新宿区に所在する被告会社の社屋トイレ内で心筋梗塞により死亡するに至った。当時四二歳であった。

(一) 業務過重

(1) 教育事業局推進部中国課(以下「本件中国課」ともいう。)の主な業務は、東京本社から中国地方に出張し、高校や予備校の教師等を訪問して、被告会社出版の教科書や参考書等の使用を働きかけ(売り込み)、被告会社主催の模擬試験への参加を勧誘するというものであり、それは身体的心裡的ストレスを伴うものであったが、本件中国課には課長の亡忠義のほかに課員の土橋東洋夫(以下「土橋」ともいう。)一名しか配置されていなかった。そのため、亡忠義は、本件中国課長に就任後、中国課に課せられたノルマを果たすため、自己の担当する地域である広島県と山口県に頻繁に一~二週間の出張を繰り返し、その死亡前約四か月間の出張日数は四一日にも及んでいた。

(2) 亡忠義は、出張時には広島市内のビジネスホテルに宿泊し、そこを拠点として主にレンタカーで広島県や山口県の高校や予備校を訪問し、教科書や参考書等の使用を働きかけ、模擬試験への参加を勧誘するという営業活動を行っており、その一日の走行距離は約一五〇キロメートルにもなり、二日間で四二〇キロメートルも走行したこともあり、また、広島県は道路の渋滞がひどく、約束の時刻に到着するための心理的負担は相当なものであった。

(3) 亡忠義は、岡山県での劣勢を挽回するため、その献身的な働きにより、広島県では目標の一八〇パーセントを達成させた。

(4) 右のとおり、亡忠義の業務は極めて過重なものであった。

(二) 健康状態と死亡

ところで、亡忠義は、昭和五六年五月に行われた被告会社の定期健康診断では異常もなく、至って健康であったが、

(1) 本件中国課長に就任した後の昭和五六年一二月頃から身体の不調を訴えるようになり、

(2) 同年一二月二八日及び二九日には、右上肢の脱力と右下肢の倦怠感を訴えて、東京池袋の木村整形外科で受診し、頚椎椎間板症、腰椎椎間板症との診断を受け、

(3) 昭和五七年一月には、実弟に「仕事でくたくただよ。成績を上げるのに大変だ。」などと洩らし、

(4) 更に、同年二月一八日には、出張先の広島市内の書店で冷汗と胸苦しさと吐気を訴えて一時休息し、帰社後の同年二月二二日頃、被告会社に対して、「健康状態不良」と記載した業務報告書を提出した。

(5) そして、同年三月一二日(金)午前四時頃、亡忠義は、目覚めて胸苦しさを訴え(安静不安定狭心症)、更に同日午前六時三〇分頃には、胸痛、冷汗、息苦しさを訴えて(安静不安定狭心症)、同日午前七時三〇分頃、自宅近くの金井医院で受診し、同日午前九時頃、心電図検査を受けたところ、医師から「心臓が弱っているから休むように。」と言われたが、翌々日からの出張の準備のために出勤せざるを得なかったため、被告会社に電話で自己の症状や受診の結果を伝え、出社が遅れる旨の連絡をして、同日午前一一時頃に出社し、業務に就いた。

そして、亡忠義は、同日正午頃昼食をとりに出かけ、会社近くのコーヒー店でミルクを飲んで、同日午後一時ころ自席に戻ったが、同日午後一時三〇分頃身体の不調を訴え、「医務室へ行ってくる。」旨を述べて離席した後、被告会社の社屋トイレ内で心筋梗塞により死亡し、同日午後七時一〇分すぎ頃ようやくトイレ内で死亡しているのが発見された。

4 因果関係

(一) 亡忠義の死因は心筋梗塞であるが、それはその日の朝に発症させた安静不安定狭心症が進行したものであり、不安定狭心症は心筋梗塞に進行しやすいことが知られており、安静不安定狭心症を発症させた場合には、安静と冠拡張薬の投与等が必要であるとされている。

(二) 安静狭心症はストレス状態で起こりやすいことが知られており、亡忠義の安静狭心症の発症は、前記3(一)記載の業務の遂行に伴う身体的心理的な負担過重によるものである。

(三) そして、亡忠義は、本来安静にしておくべきところ(医師からも、会社を休むよう指示されている。)、翌々日からの出張の準備のためにやむなく出社して業務に就いたため、これが原因となって心筋梗塞を発生させたものである。

5 安全配慮義務違反

(一) 使用者は、労働者に対し、その労働が過重とならないように配慮するとともに、労働者の健康状態の把握に努め、もって脳心臓疾患等の過労性疾病(脳出血、脳梗塞、狭心症、心筋梗塞等)の発生を防止するとともにその早期発見に努めるべき安全配慮義務を負っている。

(二) しかるに、被告会社は、これを怠り、亡忠義をしてその狭心症及びこれが進行した心筋梗塞を発生させたものである。すなわち、

(1) 被告会社は、亡忠義の本件中国課長就任後の業務が極めて過重であったのであるから、本件中国課に人員を増員し、もってその業務の軽減を図るべきであったのに、これを怠った。

(2) また、被告会社は、亡忠義の本件中国課長就任後の業務が極めて過重であったのであるから、亡忠義に適切な健康診断を実施してその脳心臓疾患等の過労性疾病の早期発見に努めるべき義務があったのに、これを怠った。

(3) 被告会社は、昭和五七年二月二二日頃に、亡忠義から、「健康状態不良」と記載された業務報告書の提出を受けたのであるから、課長職にある亡忠義があえてそのような報告書を提出したことを重大に受け止め、直ちに適切な健康診断を実施し、また、以後の出張を中止させるなど適切な業務軽減措置を講じるべきであったのに、これを怠り、適切な健康診断を実施せず、その後同年三月一日から六日まで広島県に出張させ、業務軽減措置を講じなかった。

(4) 更に、被告会社は、昭和五七年三月一二日の朝、亡忠義から、当日の健康状態が不良である旨の連絡を受けたのであるから、亡忠義に対しては、当日の出社を控えさせるべきであったのに、これをしなかった。

(5) また、亡忠義が出社した後は、亡忠義をして直ちに医療機関で受診させるなどの措置を講ずべきであったのに、これを怠り、亡忠義をして業務に従事させ、また、「医務室へ行ってくる。」旨を告げた亡忠義をして一人で離席させてしまった。

6 損害

亡忠義の損害は、次のとおり、合計一億三〇四一万五八三〇円である。

(一) 葬儀費用 一〇〇万円

(二) 逸失利益 九九四一万五八三〇円

亡忠義の昭和五六年の年収は八九〇万七五九〇円であったから、稼働可能期間を六七歳までとし、生活費控除率を三〇パーセントとして、年五分の割合によるホフマン係数を使用して逸失利益を計算すると、九九四一万五八三〇円となる。

890万7590円×15・944×(1-0・3)=9941万5830円

(三) 慰謝料 三〇〇〇万円

7 相続

原告池田知都子は、亡忠義の妻として二分一(六五二〇万七九一五円)を、その余の原告ら三名は、亡忠義の子としてその六分の一ずつ(各二一七三万五九七一円)を、それぞれ相続した。

二  被告の主張

1 亡忠義の業務それ自体が過重であった事実はない。

亡忠義は、出張日程を課長である自己の判断で自由に決めることができたのであり、教師等との面談も五時以降になることはほとんどなく、また、本件中国課にノルマが課せられていたこともなかった。

2 亡忠義の死因が心筋梗塞であるかは疑問であり、仮に心筋梗塞であるとしても、それが亡忠義の本件中国課長としての業務の遂行によって生じたものとはいえない。

また、その日の朝の発作が狭心症であるともいえず、仮に狭心症であるとしても、それが亡忠義の業務の遂行によって生じたものともいえない。

3 仮に亡忠義の業務の遂行と死亡との間に相当因果関係があるとしても、被告会社においては亡忠義の死亡を予見することはできなかった。なぜなら、亡忠義の業務は過重ではなかったし、亡忠義からその健康状態が不良である旨の申告もなされておらず、当日も亡忠義は自らの判断で出社してきており、かつ、出社後の執務状況にも通常と変わりはなかったからである。

4 なお、被告会社は、昭和五七年三月二五日、原告池田知都子に対して弔慰金二〇〇万円を支払った。

第三  当裁判所の判断

一  亡忠義の業務等

《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

1(一) 亡忠義(昭和一四年一一月生)は、県立高校を卒業直前の昭和三三年二月に見習として被告会社に入社し、その後昭和三四年二月に正社員となった。その後の亡忠義の職歴は、次のとおりであり、その勤務態度はまじめで仕事熱心であり、責任感も強かった。

昭和三四年 二月 業務部庶務課(内勤)

同 三四年一二月 業務部関西地方課(営業)

同 三七年一二月 業務部関西地方主任(〃)

同 三八年一二月 総務部関西出張所販売副主任(〃)

同 三九年一二月 〃 販売主任(〃)

同 四二年一〇月 書籍販売課次長(内勤)

同 四三年 九月 製品管理課次長(同)

同 四六年 六月 関西支局次長兼大阪主任(営業)(大阪在任)

同 四七年一〇月 販売促進部中国出張所長(営業)(広島在住)

同 四九年一〇月 販売促進局中国支局長(同)(同)

同 五一年 八月 販売局書籍販売一課長代理(内勤)

同 五二年 九月 販売局業務課長代理(同)

同 五三年 八月 事業局テスト課長代理(同)

同 五五年一〇月 事業局庶務課長代理(同)

同 五六年一〇月九日 教育事業局推進部中国課長(営業)

(二) 亡忠義は、右のとおり、昭和五六年一〇月に教育事業局推進部中国課長に就任する以前にも、いわゆる営業に通算して約一三年間従事しており、広島市に赴任在住した経験もあった。

亡忠義は、昭和五一年一二月から千葉県船橋市の自宅に居住し、東京都新宿区にある被告会社本社に通勤していた。

なお、妻の原告池田知都子は、昭和五二年七月から、自宅近くの店舗で書店を経営している。

2(一) 教育事業局推進部は、高等学校等に対して被告会社出版にかかる教科書や参考書等の使用を働きかけ(売り込み)、高等学校等に対して被告会社主催の模擬試験への参加を勧誘する営業部門として、昭和五六年一〇月に山口順司推進部長以下二八名の社員をもって、販売局販売促進部から独立して新たに教育事業局内に設けられた部であり、右推進部には、北海道課、東北課、首都圏課、関東課、中部課、関西課、中国課及び九州課の八つの課があり、各課には二名ないし五名の社員が配置されていた。本件中国課には、課長の亡忠義のほかに、課員の土橋東洋夫が一名配置されていた。

(二) 教育事業局推進部各課の業務は、その主たる業務である出張業務とその余の業務である内勤業務とに分かれ、これがほぼ一週間ごとに繰り返されるもので、(1)出張業務は、課長ないし課員が各自の担当地域に出張して、高等学校や予備校を訪問し、教師や講師に面会し、教科書や参考書等の使用を働きかけ(売り込み)、模擬試験への参加を勧誘するというものであり、(2)内勤業務は、本社での会議のほかに、出張計画をたててその準備をし(出張計画表・経費概算請求書の作成提出、切符の手配、資料の収集等)、また、出張後の業務報告書等を作成提出し、このほかに、別に定められた東京都内の担当地域の高等学校等を訪問して出張業務と同じように営業活動をするというものであった。

(三) 亡忠義は、中国課長として、広島県(福山、尾道、三原地区を除く。)と山口県並びに東京都江戸川区と江東区を担当し、土橋は、広島県の福山、尾道、三原地区、岡山県、島根県及び鳥取県並びに東京都新宿区及び中野区を担当していた。

3(一) 亡忠義は、本件中国課長に就任後、左記のとおり、広島市には飛行機で出張し、同市内のいわゆるビジネスホテル等に宿泊し、そこを拠点にレンタカー等を利用して担当地域内の高等学校や予備校を一日に数校訪問し、教師や講師に面会して、被告会社出版にかかる教科書や参考書等の使用を働きかけ、被告会社主催の模擬試験への参加を勧誘するという営業活動を行っていた。そして、右出張以外は、本社で内勤業務を行っていた。

(1)昭和五六年一一月七日(土)~一三日(金)(七日間)

大阪市 岡山市 広島県 山口県

(2)同 年一二月七日(月)~一九日(土)(一三日間)

(内休日一日)

広島県 山口県

(3)昭和五七年一月一八日(月)~二二日(金)(五日間)

広島県 山口県

(4)同 年一月二七日(水)~二月五日(金)(一〇日間)

(内休日一日)

広島県 山口県

(5)同 年二月一四日(日)~二〇日(土)(七日間)

広島県 山口県

(6)同 年三月一日(月)~六日(土)(六日間)

広島県

(二) 亡忠義が訪問した高等学校や予備校の数は、一日あたり合計四校ないし九校であり、その死亡時までの約五か月間の出張回数は合計六回、出張日数は合計四六日であったが(出張中に入った二日の休日を除く。)、亡忠義の実際の訪問先は必ずしも事前の訪問予定校とは一致せず、その裁量によって適宜変更されていた。

また、亡忠義は、右各出張を全て自らが計画した日程や旅程に基づいて行っており、当時、推進部は新設されたばかりであってかつ年度途中でもあり、訪問すべき学校数等にノルマはなかった。

(三) 被告会社所定の実労働時間は一日七時間(始業午前九時、終業午後五時、休憩一時間)であったが、亡忠義が本件中国課長に就任した後死亡するまでの一五五日間において、亡忠義の休日数(土・日で休んだ日、年末年始で休んだ日、有給休暇及び振替休日で休んだ日)は、週休二日制のもとに、昭和五六年一〇月一五日までが三日、同年一一月一五日までが一〇日、同年一二月一五日までが一一日、昭和五七年一月一五日までが一五日、同年二月一五日までが一〇日、同年三月一二日までが七日で、合計五六日であり、勤務した日は九九日であって、その比率は、休日一に対して勤務日一・七七であった。なお、亡忠義の内勤業務においては残業はほとんどなく、また接待もなかった。

4 なお、教育事業局推進部内の他の七名の課長も、同時期に亡忠義と同様の出張を繰り返していたが、その出張日数は次のとおりであり(亡忠義は前記のとおり四六日)、八人の課長の中では亡忠義が一番年齢が若かった。

川上北海道課長 五五日

清水東北課長 四〇日

渡辺首都圏課長 四二日

川手関東課長 四九日

久保田中部課長 四六日

有賀関西課長 五五日

渡辺九州課長 四八日

二  亡忠義の健康状態等

《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

1 亡忠義は、昭和五二年以降毎年五月ないし六月に実施される被告会社の定期健康診断を受けていたが、その結果に特に異常はなく、昭和五六年五月一四日に実施された定期健康診断においても、「身長一六六・〇センチメートル、体重七三・〇キログラム、血圧一三二~八二、尿検査・たん白及び糖ともにマイナス、胸部エックス線検査・正常、心電図・異常なし、肝機能検査・正常、総合判定・異常なし」というもので、やや肥満体ではあったものの、健康診断上は特に異常はなかった。

2 亡忠義は、右下肢の倦怠感、左前腕の脱力感等を訴えて、昭和五六年一二月二八日及び同月二九日、木村整形外科で木村信医師の診察を受け、「頚椎椎間板症、腰椎椎間板症」と診断された。なお、木村医師作成の労働基準監督署宛ての意見書には「X写真、頚椎、腰椎、著変を認めず。」と記載されている。

3(一) 亡忠義は、前記一3(一)(5)の出張中の昭和五七年二月一八日午前九時頃、広島市の積善館書店で、汗を出しながら「気分が悪い。」旨を述べ、胃薬を服用して約一時間休息した。

(二) 亡忠義は、右出張後の同年二月二二日頃、その業務報告書(乙二の5)を山口推進部長に提出したが、その健康状況欄には、「良・不良」の選択肢の内の「不良」の方に丸印が付けられていた(しかし、他に詳しい記載はなかった。)。

その際、亡忠義は、山口部長に対して、「出張中に広島市内で気分が少し悪くなり、書店に寄って休ませてもらったので、不良の方に丸印を付けた。」旨を付加説明し、山口部長からその後の状態を尋ねられて、「その後は大丈夫であった。」旨を答えた。

4 亡忠義は、昭和五七年二月二六日、被告会社で行われた呼吸器検診の健康診断を受けたが、その結果は「胸部エックス線検査・正常、かく痰検査・正常、総合判定・異常なし」というものであった。なお、右検診の際、亡忠義が特に健康の不良を訴えたことはなかった。

5 亡忠義は、昭和五七年二月二七日(土)と二八日(日)は休日であったために出勤せず、前記一3(一)(6)記載のとおり、同年三月一日(月)から六日(土)まで広島県へ出張したが、その出張先での営業活動は次のとおりであった。

三月一日 羽田空港~広島空港

二日 広島市~吉田町~三次市(レンタカーで移動)

三日 三次市~庄原市~東城町~広島市(レンタカーで移動)

四日 広島市(レンタカーで移動)

五日 広島市~呉市~広島市(レンタカーで移動)

六日 広島市(レンタカーで移動)広島空港~羽田空港

6 昭和五七年三月七日は日曜日であり、亡忠義は、八日(月)に出勤して右出張の業務報告書を作成し、定時(五時)に終業し、知人と飲食して午後九時半頃帰宅した。

右業務報告書の健康状況欄には、「良・不良」の選択肢の内の「良」の方に丸印が付けられており、亡忠義は、これを山口推進部長に提出するとともに、同年三月一四日(日)から二〇日(土)まで山口県に出張する旨の出張届を提出した。

7 亡忠義は、昭和五七年三月九日(火)に有給休暇をとり、早朝自宅を出て被告会社の社員谷川忠幸とともに茨城県下のゴルフ場でゴルフをし、翌一〇日(水)の振替休日にもゴルフに出掛けた。

8 昭和五七年三月一一日(木)、亡忠義は、出勤して執務し、定時に終業して帰宅した。

9 なお、亡忠義のこの頃の喫煙量は一日あたりチェリー二〇~四〇本位、その自宅における酒量は一日あたりビール中ビン一本または日本酒一合位であった。

三  亡忠義の死亡当日の状況等

《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

1(一) 亡忠義は、昭和五七年三月一二日(金)午前四時頃に胸部に苦しさを感じて起き上がり(安静不安定狭心症と推認される。)、一〇分位してまた寝たが、午前七時頃に再び冷汗を出すほどの強い胸痛を感じたことから(これも、安静不安定狭心症と推認される。)(以下、この二度にわたる狭心症を併せて「本件狭心症」という。)、その胸痛のおさまった午前七時半頃、家族が日頃診察を受けている自宅近くの金井医院に妻の原告池田知都子に付き添われて徒歩で赴き、金井仁也医師の診察を受け、心電図検査のために午前九時頃に再度来院するよう指示されて、いったん帰宅し、午前八時半頃、自宅から被告会社に電話をして、電話に出た社員に対し、「具合が悪いので医者に寄って行く。出社が遅れる。」旨の連絡をした後、午前九時頃に再び金井医師の診察を受けた。

なお、亡忠義がその胸部に右のような痛みを訴えたのは、この時が初めてであった。

(二) 金井医院における診察の結果は、「血圧一二〇~八〇、脈拍一分間に六〇、CPK一一七」等というものであり、金井医師は心筋梗塞を疑ったが、心電図検査の結果に異常は認められなかったため、金井医師は、亡忠義に対し、「検査結果に異常は認められないが、心疾患の疑いがある。」、「今日は会社を休んだ方がよい。」、「発作が強くなるようなら大学病院で受診するように。」との趣旨の話をし、内用薬を渡して、その服用を指示した。

(三) しかし、亡忠義は、原告池田知都子に対し「出張の準備があるので出社する。明日病院に行く。」旨を述べて、午前九時半頃、自宅から被告会社に電話をし、電話に出た社員に「心臓が悪いと医者に言われたが、検査結果に異常はなく、薬ももらったので、これから出社する。」旨を述べて、その頃船橋市の自宅を出た。

なお、亡忠義の被告会社への通勤所要時間は通常八〇分~九〇分位であった。

2(一) 亡忠義は、同日午前一一時頃、被告会社に出社し、土橋らに「今朝病院で心電図をとったが異常はなかった。」旨を述べ、通常どおり仕事に就いた後、正午頃食堂で昼食をとり、会社近くの喫茶店でミルクを飲んだ後、同日午後一時頃に自席に戻った。

(二) しかし、亡忠義は、執務開始直後の同日午後一時三〇分頃、傍にいた社員に対し「医務室へ行ってくる。」旨述べて離席し、その直後急性心筋梗塞を発生させて(以下、これを「本件心筋梗塞」という。)、トイレの大便所内に入って嘔吐し、その頃本件心筋梗塞により死亡するに至った。四二歳であった。

なお、被告会社の医務室には平日の午前九時から看護婦が常駐しており、また、午後一時からは医師も常駐していた。

(三) 被告会社の社員は、同日午後四時半頃から亡忠義に捜し始め、午後七時一〇分頃、トイレ内で死亡している亡忠義を発見した。

なお、亡忠義の上司にあたる山口推進部長は、有給休暇のため、当日は出勤していなかった。

四  狭心症及び心筋梗塞

1 狭心症は、主に、心筋に酸素を供給する冠動脈の動脈硬化によって生じた内腔の狭窄により心筋が必要とする酸素を供給できなくなる疾患をいうものであり、胸部に痛みを伴うもので、虚血性心疾患の一つである。

狭心症は、(1)その発生の時期からみると、<1>労作を開始したことにより心筋の酸素需要量が増加したが、冠動脈内腔の狭窄により必要な酸素(血液)を供給することができなくなることにより発症するもの(労作型狭心症)と、<2>労作の開始とは関係なく、突然何らかの原因により冠動脈がれん縮してそのため血流が減少し、あるいは、冠動脈の内側の動脈硬化部に生じたプラークが何らかの原因によって破裂し、そこから流出した物質が血小板と接して血小板血栓を作り、これが冠動脈内のもともとの狭窄とあいまって冠動脈内の血流を低下させ、これらによって発症するもの(安静型狭心症)とに分類され、(2)また、心筋梗塞に移行する危険性が大きいか否かにより、不安定狭心症と安定狭心症とに分類される。

なお、血小板血栓はやがて溶解して血流は再開するものであるが、それまでの心筋虚血持続時間が20~30分以内であれば心筋は回復してもとの正常な状態に戻り得るものの、それ以上の時間であれば心筋は壊死に陥って次第にその範囲を広げていく。

2 心筋梗塞は、主に、冠動脈の内腔の閉塞によって血流が停止しこれが持続することによって心筋の壊死を生ずる疾患をいうものであり、胸部に激痛を伴うものであって、虚血性心疾患の一つである。その閉塞の機序は、冠動脈の内側の動脈硬化部に生じたプラークが何らかの原因によって破裂し、そこから流出した物質が血小板と接して血小板血栓を作り、これが冠動脈内のもともとの狭窄とあいまって冠動脈の内腔を完全に閉塞してしまうために生ずるものである(内腔狭窄度が七五パーセント以上の場合に発症)。

3 冠動脈の動脈硬化により内腔の狭窄を生じさせる要因としては、加齢のほかに、永年にわたる高コレステロール血症、高血圧、喫煙、糖尿病、肥満、運動不足、ストレス、A型行動等があげられており、また、冠動脈内のプラークを破裂させる誘因の一つとしてはストレスがあげられているが、これについては、ストレスは誘因とはならないとの考えもある。

五  判断

1 亡忠義の業務について

原告らは、亡忠義の本件中国課長としての業務は極めて過重なものであった旨を主張する。

たしかに、亡忠義の本件中国課長としての業務は、前記のとおり、出張業務と内勤業務とに分かれ、出張業務は、飛行機で広島市に赴き、ビジネスホテル等に宿泊して、そこを拠点にレンタカー等で広島県や山口県内の高等学校等を訪問し、教師等に面会して、被告会社出版にかかる教科書や参考書等の使用を働きかけ(売り込み)、被告会社主催の模擬試験への参加を勧誘するというものであり、内勤業務は、本社での会議に出席するほか、出張の準備をし(出張計画表・経費概算請求書の作成提出、資料の収集等)、あるいは、出張後の業務報告書等を作成提出し、更には、東京都内の担当地域の高等学校等を訪問して出張業務と同じ営業活動をするというものであって、出張業務と内勤業務とがほぼ一週間ごとに繰り返されるものであり、そして、教育事業局推進部は昭和五六年一〇月に同局に設けられた新しい部であって、配置人員も決して多いとはいえず、亡忠義の出張回数も、昭和五七年三月一二日に本件狭心症を発症するまでの間に六回・四六日に及んでおり、それまでの事業局庶務課長代理時代に比べて格段に多くなっていること、それに伴って身体的心理的負担が増加したであろうことは、否定できない。

しかしながら、<1>亡忠義の本件中国課長としての業務は右のとおりであってそれ以上のものではなく、出張業務においても、訪問先が主として高等学校であってみれば、さほど遅くまで業務を遂行していたものとも認められず、また、少なくとも当時においては推進部にはノルマというほどのものはなかったこと、<2>亡忠義は、本件中国課長に就任した昭和五六年一〇月九日からその死亡する昭和五七年三月一二日までの一五五日間において九九日ほど勤務しているが、五六日間は休んでおり(休日一に対して勤務日一・七七)、右九九日の内の四六日は出張業務であったものの、五三日は内勤業務であって、内勤業務においては残業はほとんどなかったこと、<3>亡忠義の出張業務を推進部の他の七名の課長と比べても、前記認定のとおり、その出張日数等においてはほぼ同じであって、亡忠義のみが多いものとはいえないこと、<4>亡忠義は、かつてかなりの期間営業に従事したことがあり、特に広島市には四年近くも住んで、中国支局長等として勤務していたこと、<5>亡忠義は、死亡する前々日と前々々日に二日続けてゴルフに行っていること、以上の諸点を考慮すると、たとえ出張先での亡忠義のレンタカー運転を勘案しても、亡忠義の本件中国課長としての業務が同人の健康を害するほどにそれ自体過重ないしは極めて過重なものであったとは未だいい難いものというべきである。

原告らのこの点に関する主張はにわかに採用することができない。

2 因果関係について

(一) 亡忠義の業務と本件狭心症の発症について

(1) 前記認定の事実を総合すると、亡忠義は、昭和五七年三月一二日までにその冠動脈に強度の内腔狭窄を有するに至っており、このような状態のもとにおいて、同日の午前四時頃と午前七時頃の二回にわたって、何らかの原因により冠動脈内の動脈硬化部に生じたプラークが破裂して血小板血栓が生じ、これが右狭窄とあいまって冠動脈の血流を一時的に低下させたため本件狭心症(安静不安定狭心症)が発症したものと推認される。

(2) 原告らは、「右昭和五七年三月一二日に亡忠義に発症した本件狭心症は、亡忠義の中国課長としての業務の遂行に伴う身体的心理的な負担過重によるものである。」旨を主張する。

たしかに、亡忠義は、本件中国課長に就任した後広島県等への出張によりその睡眠や食事等に変化を受け、レンタカー運転の影響も加わって、身体的心理的にそれ以前に比べてより重い負担を強いられていたであろうことは推測するに難くなく、また、亡忠義が本件中国課長に就任する約五か月前に受けた定期健康診断においては異常がないものと診断されていたことも事実である。

しかしながら、<1>亡忠義の業務それ自体が同人の健康を害するほどに過重とはいえないものであったことは前示のとおりであり、<2>そして、亡忠義が本件中国課長に就任してから本件狭心症を発症するまでの期間はわずか五か月であること、<3>他方、狭心症を発症させる要因としては、加齢のほかに、永年にわたる高コレステロール血症、高血圧、喫煙、糖尿病、肥満、運動不足、ストレス、A型行動等があるところ、亡忠義はやや肥満であり、喫煙量も少なくないこと、以上の点を考慮すると、本件において、亡忠義が本件中国課長としての業務を遂行することによって冠動脈の硬化による内腔狭窄が生じこれを基盤として本件狭心症を発症させるに至ったものとは未だいえないというべきである(亡忠義の本件狭心症の発症は、その中国課長としての業務の遂行とは無関係なものと認むべきである。)。

したがって、亡忠義の業務と本件狭心症の発症との間にはいわゆる条件的因果関係はないものというべきであり、原告らのこの点に関する主張は採用することができない。

なお、医師長谷川吉則作成の意見書は、「安静狭心症は血管のれん縮との関係が深く、またストレス状態で起こりやすいことが知られているが、亡忠義の安静狭心症の発症は業務の過重性が要因となって発生したものと判断される。」旨を述べているが、右に照らし、にわかに採用できない。

(二) 亡忠義の業務と本件心筋梗塞の発生について

(1) 右に認定のとおり、亡忠義には冠動脈の内腔に強度の狭窄が生じており、このような状態のもとにおいて、何らかの原因によって昭和五七年三月一二日午後一時三〇分頃冠動脈内の動脈硬化部に生じたプラークが破裂して血小板血栓が生じ、これが右狭窄とあいまって冠動脈の内腔を閉塞し、血流が途絶したため本件心筋梗塞が発生したものと推認される。

(2) そして、原告らは、「亡忠義は、当日は本来安静にしておくべきところ、翌々日からの出張の準備のためにやむなく出社して業務に就いたため、これが原因となって本件心筋梗塞が発生したものである。」旨を主張する。

たしかに、亡忠義が昭和五七年三月一二日午前四時頃と午前七時頃に二回にわたって本件狭心症を発症させたこと、それは安静不安定狭心症と推認され、不安定狭心症は安静を必要とするものであって、不用意に運動負荷をかけると心筋梗塞を発生する危険性の高いものではあることは、原告ら主張のとおりである。

しかしながら、本件においては、仮に亡忠義が出勤してその日の業務に就かなかったとしても、亡忠義に心筋梗塞が発生した可能性は十分にあるものと認められる。けだし、亡忠義は当日既に二度にわたり狭心症を発症させていたものであり、亡忠義はその後午前一一時ころ被告会社に出社したが、出勤時は既にラッシュアワーは過ぎていたものと推知され、出社後の業務内容も内勤業務であって特に負担となるものではなく、現に亡忠義は通常どおり執務して昼食をとりに出かけ、午後一時からは再び自席で執務を開始しているのであって、亡忠義にとって過重なあるいは不用意な運動負荷というべきものは認められず、しかも、心筋梗塞は安静時ないし睡眠時にも多く発生するものだからである。

したがって、亡忠義の業務と本件心筋梗塞の発生との間には条件的因果関係がないものというべきであり、原告らのこの点に関する主張も採用することができない。

なお、医師長谷川吉則作成の意見書は、「不安定狭心症は心筋梗塞へ進展しやすく、適切な治療が必要とされる。……亡忠義は、…翌翌日の出張の準備のため出社せざるを得なかった。従って、亡忠義は適切な処置がとれなかったのであり、心筋梗塞による亡忠義の死亡は業務によると判断するのが妥当である。」旨を述べているが、右に照らし、にわかに採用することができない。

3 安全配慮義務違反について

(一) 原告らは、「(1)被告会社は、亡忠義の本件中国課長就任後の業務が極めて過重であったのであるから、本件中国課に人員を増員し、もってその業務の軽減を図るべきであったのに、これを怠った。(2)被告会社は、亡忠義の本件中国課長就任後の業務が極めて過重であったのであるから、亡忠義に適切な健康診断を実施してその脳心臓疾患等の過労性疾病の早期発見に努めるべきであったのに、これを怠った。(3)被告会社は、昭和五七年二月二二日頃に、亡忠義から、「健康状態不良」と記載された業務報告書の提出を受けたのであるから、直ちに適切な健康診断を実施し、また、以後の出張を中止させるなど適切な業務軽減措置を講じるべきであったのに、これを怠った。(4)更に、被告会社は、昭和五七年三月一二日の朝、亡忠義から、当日の健康状態が不良である旨の連絡を受けたのであるから、亡忠義に対して当日の出社を控えさせるべきであったのに、これをしなかった。(5)また、亡忠義が出社した後は、亡忠義をして直ちに医療機関で受診させるなどの措置を講じるべきであったのに、これを怠り、また、亡忠義をして一人で離席させるべきではなかったのに、離席させた。」旨を主張する。

(二) しかし、仮に亡忠義の業務の遂行と本件狭心症及び本件心筋梗塞との間に条件的因果関係及び相当因果関係があるとしても、右(1)及び(2)については、亡忠義の本件中国課長としての業務が同人の健康を害するほどに過重なものであったといえないことは前示のとおりであるから、原告らの主張はその前提を欠くものであり、右(3)については、亡忠義は、上司にあたる山口推進部長からその後の状態を尋ねられて、「その後は大丈夫であった。」旨を答えているのであるから、被告会社において亡忠義につき適切な健康診断を実施し、また、その業務軽減措置を講ずべきであったとまではいい難く(なお、被告会社は、その後、呼吸器検診とはいえ健康診断を実施しており、亡忠義がその際に自己の健康状態が不良である旨を訴えた事実はない。)、右(4)については、亡忠義は課長であって自己の判断と責任において出社を決定したものと認められ、上司に出社の要否を尋ねたりあるいは休暇の申請をしたりしたわけではないから、たとえ、亡忠義に出張の準備のために出社しなければならない事情があったとしても、被告会社の上司にこれを控えさせる義務があったとまではいえず、右(5)についても、亡忠義は、出社後は一応通常どおりに仕事をしていたのであって、外形的には何ら異常と認めるべき事情はなかったのであるから、被告会社の上司に亡忠義をして直ちに医療機関で受診させるべき義務があったとはいえず、また、亡忠義をして一人で離席させてはならない義務があったものともいえない。

結局、原告らのこの点に関する主張も採用することができない。

六  結論

よって、原告らの本訴請求をいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 原田敏章 裁判官 木納敏和)

裁判官 有賀直樹は転補のため署名押印することができない。

(裁判長裁判官 原田敏章)

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